「上司による厳しい指導と、パワハラは紙一重のような気がします。きびしい指導とパワハラの違いはなんなのでしょうか?」
おっしゃるとおり、紙一重ですね。その違いを分けるのは何か、というのはすごく難しい問題です。
まず、前提知識。
パワハラとは、パワーハラスメントの略ですが、法律上、「パワハラとはこれこれの行為を言う」といった定義はありません。
しかし、「職場のいじめ・嫌がらせ」「パワーハラスメント」事例が近年増加し、社会問題になってきていることを受けて、「職場のいじめ・嫌がらせ問題に関する円卓会議」という会議を発足させ、2011年7月から検討を進め、2012年1月30日、このワーキンググループ(会議の中の委員会のようなもの)が、円卓会議に向けて報告書をとりまとめて提出した。
この報告書では、職場のパワーハラスメントとは、「同じ職場で働く者に対して、職務上の地位や人間関係などの職場内の優位性を背景に、業務の適正な範囲を超えて、精神的・身体的苦痛を与える又は職場環境を悪化させる行為」を言う、と定義されています。
では、この定義に該当するパワハラなのか、それとも業務上の必要に基づく上司の指導なのかを、どうやって区別するのか?
法の理屈としては、簡単なのです。パワハラが許されないのはなぜか?それは、被害を受ける労働者のある種の法益を侵害するから、です。
ではその法益とは何?それは、「人格権」と言われています。
人格権とは、名誉とか、自由とか、人格と切り離すことが出来ない利益のことです。人格権については、例えば、肖像権やプライバシー権といった形で、裁判所の判例でも認められています。
つまり、職場において、攻撃されている労働者の人格権を侵害し、人格として傷を負った状態にすることが、法的には許されないから、人格権を侵害していれば、それは上司の指導とはいえず、パワハラとなって許されない、ということになるわけです。
しかし、問題はここからです。
「だから、人格権を侵害するって、どういう場合なんだよ!」。まさにそれこそが問題ですね。
結論を言うと、すごく明確なモノサシがあって、それを使えば一発でパワハラかそうでないかを区分けできるということはないのです。この問題は、ケースバイケースで判断せざるを得ないのです。問題はそのケースバイケースの判断の際の視点をしっかり持つこと、ということになります。
そこで、みなさんにその視点を持っていただくため、ここからは、少し具体的に考えてみましょう。
みなさんは、「ハッピーフライト」という映画をご覧になったことがありますか?見たことがある人には話が早いのですが。
航空業界で働く人たちの内幕劇のような話です。田辺誠一さんが演じる国際線のパイロットは、機長昇格を目指す副操縦士。
ハワイ便の搭乗が、機長昇格試験を兼ねている状態で、彼は、時任三郎さんが演じる機長の横で操縦桿を握ってハワイへと離陸する。客室を預かるキャビンアテンダント、空港のスタッフ、整備スタッフといった旅客飛行機をめぐる様々な人間模様がからんで、やがて事件が起きて…、ということで大変楽しい映画です。
未見の方は、ぜひこの原稿の勉強と併せてご覧ください(笑)。
さて、この原稿との関係では、注目したいのは、時任さんの機長が、田辺さんの副操縦士に対し、厳しく指導する場面です。
出発前に副操縦士は、機体の異常を確認するため、飛行機の下の整備状況を見に行く。その際オイルが垂れて副操縦士の右目のあたりに付着する。
操縦席に戻った副操縦士に、機長は「どうしたんだ、それ?」と聞く。副操縦士が事情を説明すると、機長は言う、「お前、帽子をかぶっていなかったな。目に入っていたらどうするつもりなんだ。そんなことで、出発できるのか!」。
また、別の場面で、離陸直後、飛行機は、雲の中に突入してしまう。機長は、操縦桿を操る副操縦士に言う。「馬鹿!どこ見てるんだ!」しばらくすると、雲を通ったことで、機体の外の部分が凍り付いてしまう。機長、「だから言わんこっちゃない!」。
さて、以上の2つの場面。機長の言葉は、パワハラでしょうか?それとも厳しい指導でしょうか?
映画の制作者は、まさかパワハラの不愉快な場面を見せようという制作意図ではないと思われますから、これがパワハラになるとは思ってはいないでしょう。私自身も、上記の2つの場面は、2つとも、パワハラになるとは思ってはいません。
なぜそう考えるかというと、2つの場面とも、叱責された副操縦士自身が、叱責の内容に納得している様子であること。機長の言葉は、機長昇格試験という場面の中で、機長として求められる資質を指摘し、どうすればよかったのかについても副操縦士が理解できるような状況であったこと、が大きな理由です。
このように上司の指導には、部下の業務に関して具体的な関連性を持った指導であること、それが部下のために役に立つ情報の提供が客観的に存在すること、部下の弱点を補うためという目的を具体的に持っていること、そういった要素が必要であるように感じます。
私自身がパワハラ事件を担当していて感じるのは、パワハラと訴えられる事例では、その多くの場合、上司は口では「部下のため」と言うのですが、発言の目的や、指導の内容が抽象的で、被害者は、上司は悪意を持っているからこういうことを言っていると受け止めていることが多く、また、被害者にはどうすればよかったのか、今後どうしろと言われているのかが不明なケースが多い、ということです。
このように、パワハラと上司の指導とを分けるのは、その言動の目的や、内容・部下に伝えたいことが、業務との関係で具体的な関連性を持っていること、ではないかと考えています。
病院支部のみなさんの中には、部下として上司から厳しく指導される人も、上司として部下に厳しく指導しなければならない人もいると思います。ぜひ、上記にあげた要素の話を、持つべき視点として参考にしてもらえればと思います。 なお、若干教科書的に補足すると、パワハラ事件は、上司による指導という場面だけで起こる話ではありません。
そこで、パワハラと考えるための一般的な指標としては、私は、パワハラが人格権を侵害するものである以上、基本的には、被害者が傷つけられたと感じるのなら、それは基本的にはパワハラと理解すべきものと考えています。
同じ行為をしても、傷つく人もいればそうでない人もいる。だとしたら、人格の傷の発生は、被害者ごとに見ていくしかないのです。
しかし、被害者が実際のところどう感じたのかについて、他の人には非常にわかりにくいものです。
そうしたとき、他の人は、周囲の諸事実を集めて判断するほかないのです。その言動の前後での被害者の様子はどうだったか。行われた行為やその現場の状況はどうか。当該行為が行われた回数、間隔、その状況に至る経緯はどうか。
その行為は労働基準法や刑法などの法令に明確に触れる行為であるか否か。被害者の事前事後の出勤状況や勤務態度への影響はどうか。
被害者が当該行為をされた後、職場の同僚の誰かが何らかのフォローをしているか。それが労働条件上の対価関係に反映していたり、実際に労働条件に影響したり、仕事を継続することが困難になったり、何らかの不利益が発生したりしていないか。
私が上記であげた、「上司の指導には、部下の業務に関して具体的な関連性を持った指導であること、それが部下のために役に立つ情報の提供が客観的に存在すること、部下の弱点を補うためという目的を具体的に持っていること」といった要素も、この周囲の諸事実の中に位置づけられるものです。
そして、こうした要素の存在が認められれば、多くの場合、被害者は上司は自分のために指導していると理解できてしかるべきで、そこでは人格権の侵害を認めることはできない。
それでも被害者自身がそう受け止められていない場合は被害者自身に被害妄想的な問題を抱える場合を認めることもできるでしょう。
以 上